言葉をつかって情報を伝えるとき、おおまかには文章と音声の2つの手段がある。音声になって発される言葉というのは文章を読み上げているだけにも思えるが、実際には声量やトーン、間の取り方など素の文章にはない情報が多大に含まれ、またそれが情報を伝えるうえで非常に重要な役割を果たすらしい。ちょうど先々月のこと、学会発表に行った際に、私は人生で初めての国際学会での口頭発表にビビりまくり、原稿を用意してそれをうまく読むことに徹そうとしていた。私の普段の発表スタイルは原稿を用意せずスライドをチラ見しながらベラベラと早口でしゃべるというもので、原稿を用意するというのも実際には初めての経験だったのだが、用意して覚えて話すに越したことはないだろうと思っていた。しかし、いくら練習しても棒読み感が抜けず、これでは伝わりにくいという評価を先生方からもらい続けた。結局、学会の会期の半ばになって私は原稿を読むのをあきらめた。いつも通りのスタイルでアドリブで話すことにし、英語が怪しいことは否めないが、自分では満足のいく発表ができた。聴衆にも伝えたかったことは伝わったと思う。

音声で伝える言葉と文章で伝える言葉は性質が異なる。学会発表の話は、もちろん自分が慣れた方法でやったからというのもあるだろうが、文章として書いた言葉ではなく音声として出てきた言葉で伝えたから伝わるものになった、というところもあるのではないかと思う。音声情報は時間に縛られている。一度聞き逃せば、その瞬間の情報を取り戻すことはできない。その場にいる全員が同じペースで同じ言葉を受け取っていて、次に出てくる言葉は発表者以外は知る術もない。だから、「次の~」とか「さっきの~」みたいな指示語の使用には慎重になったほうが良いのだろうし、多少くどくても重要なことは繰り返したほうが良いのだろうと思う。そして、口頭で言葉を話すときは、会話で使う言葉が前提にあるから、自然とそういったことを前提にした話し方になる気がする。一方で文章を書いているときは目で見たわかりやすさとか感じの良さを優先してしまって、読み上げるとよくわからない文章になることがある。

読むための文章が好きだ。読んでいてよくわからなくても何度でも読み返せるし、飽きてきたら適当に読み飛ばすこともできる。気に入った部分があったら何度も読んだっていい。シーク可能であるというのは音声に対して文章の大きな利点だ。入力した言葉をすぐに理解せずにいったんキューに入れてしまう非同期人間としては、いったん読んだ部分をもう一度読み返すことに大きな意味がある。1度読んで首を傾げ、2度読んでわかった気になり、文を覚えるぐらい読んでやっと理解する。もちろん、理解する必要がない文だったらわかった気になって満足しておくこともできる。そうやって読み手が受け取り方を選べるのは心地が良いし、便利だ。わたしはくどい表現を好みがちなのだが、読み手には読み飛ばす選択肢があるのだから、という言い訳もできる。とても便利である。

そもそも、言葉は何か伝えたいことを伝えるためだけにあるものではない。なんとなく読みたい文章があって、何が書いてあるのかは知っているのに、内容には特に興味がないのに、繰り返し文章に目を通す。私はいくつかのインターネットのブログをそういう目的でクローリングしているし、X とか身内の SNS をみているのも半分くらいはそこにある言葉が好きだからだ。言い回しがおもしろいというような話ももちろんあるが、特に愉快ではないが惹かれる文章というのもある。伝えるために書かれたわけではない文の、余計ともいえる一部に、書き手の個人的な感覚だとか思いが表れていることがあって、そういったものを読んで「そうなんだ」と思うのが好きだ。こういう「伝えること」から外れた言葉は、受動的に言葉を受け取っていても耳には入らないけれど、自分で望んで目に通して、場合によっては繰り返し噛むことで味が出る。だから、そういうものを楽しむには、なんとなく、音声より文章のほうが向いている気がする。個人的な感覚かもしれないけれど、耳より目のほうが言葉への距離が近いとも思う。耳に入った音声を言葉として理解するのは時間がかかる。

私が「いい文章を書きたい」とか言っているのは、よく伝わる文を書きたいという話ではなくて、噛んでいておいしい文章を書きたいという話になる。別に世の中に言いたいことがあるわけではないし、文章にしてまで友達に伝えたいことがあるわけでもないのだけれど、絵が描きたいとか音楽が作りたいとかと同じように自分が好きなものが自分の手から出てきてほしいと思う。ましてや文章である。長文でなくとも我々は日々なにかしらの文章を書いているわけで、それを素敵なものにできたらなんとも幸せそうである。知らんけども、いい文章を書く人の X はきまっておもしろい。ネタツイとかそういう話では全然ない。

Reportublic/Report]] を始めたわけだけれど、あれは伝えることを重視するあまりなんだか構造化しすぎてしまったり、どうしても短く書いてしまったりと、じわじわ「いい文章」からは遠ざかっているなと感じている。伝えるために必要最低限の言葉だけを選んでしまう、自分の悪い癖のようなものだと思う。なんだか「自分の近況を書く」と「いい文章を書く」を同時に目指すのは筋が悪い気がして、ここに近況とかとは関係のない文章を置いていくことにした。つまりこの「いい文章を書きたい」も一応「いい文章」を目指して書かれていることになるのだけど、どうなんだろうか。見出しがない長文というのはそれだけでけっこう好きなので、こうやって書いてみてなんとなく心地は良い。